レポートを上手く書くならこの本がおすすめ

大学におけるレポートとは|誰もが納得する文章であることが重要だ

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レポートとは、具体的にどのような文章なのでしょうか。

多少レポートの書き方を学んだ方であれば、このように答えるやもしれません。

「序論・本論・結論に分けて書かれた文章」
「感想を書いてはいけないもの」
「事実と意見を分けて書かれた文章」

はい、どれも正しいです。しかしながら、どれもレポートの本質とは少しずれています。

というのも、これらはどれも上手くレポート書くための「テクニック」だからです。私の問いはもっと深いところにあります。

レポートとは、いったい何なのでしょうか。そもそも、なぜテクニックを使わないといけないのでしょうか。

答えを出すのはかなり難しいです。

「レポート」とひとことで言っても、種類はさまざまだからです。お題によって書き方が変わってくるし、文系と理系でも書き方が多少違います。

ただ、どのレポートも”本質”は変わらない気がする。

答え探しに苦心してあれやこれやと考えてみた結果、私はこのように結論づけました。

大学レポートの本質は、他人を納得させる文章であること

この理由について説明してみたいと思います。

レポートで重要なのは「他人を納得させる文章」であること

レポートで大切なことは、だれが読んでも納得する文章であることです。

ここでポイントとなるのが、ここでいう”納得する文章”は”分かりやすい文章”とは異なる意味だということです。

分かりやすいというのは文章において至極当然なことです。私が言いたいのは、分かりやすいのもっと先。読んだ人に「なるほど」と言ってもらえるような文章がレポートには必要です。

ここであなたが気になったのは、なぜ「なるほど」と言ってもらう必要があるのか、ということではないでしょうか。

この答えが分かるようになるには、「高校までの学問」と「大学での学問」の違いについて理解しておく必要があります。

振り返ってみてください。

高校までの学問と言えば、”受け身”で学ぶものでした。教科書に書いてあることを理解し、知識を習得すること。これがメインの活動だったわけです。

しかし、大学では違います。

大学は、学問を世の中に”届ける側”です。研究をして、理論を生み出すところです。そして、生み出した理論を世の中に広めなくてはなりません。

「受けとる側」と「届ける側」。学問に対するベクトルが異なります。

ここが大きな違いです。

大学では、理論を世の中に広めるために、文章を使います。いわゆる論文というヤツです。

このとき、読んだ人が「なぜ?」「どうして?」「それは嘘だ!」とならないように慎重に書かねばなりません。「この理論は信用できる」と思ってもらえて、やっとこさ、研究成果となるからです。

逆に言えば、この世の中を変える”世紀の大発見!”をしても、人を納得させる文章技術がなければ、悲しいかな、誰もその理論を信用してくれません。

大学では「誰もが納得する文章」を書くことが、何よりも大事なことです。

この説明で、ぼんやりとレポートというものの存在がわかってきたでしょうか。

抽象的すぎて、まだいまいちピンと来ていない人も多かろうと思います。次で、どんな要素がレポートに必要なのか説明していきます。

納得させるには「客観性」と「論理性」が必要

人を納得させるために重要なのが、「客観性」と「論理性」です。

さらっと言いましたが、この「客観性」と「論理性」は本当に本当に大事。軽んじてはなりません。

客観性がなければ上手く話が伝わらないし、論理性がなければ誰もあなたが言っていることを信じてくれません。その理由について詳しく説明します。

 

客観性がないと正しく話が伝わらない

正しく話を伝えるためには、「客観性」が必要です。

「ええっウソ!いつも人と話していて”キャッカンセイ”とやらを意識せずとも、上手く話せているよ!」

という人もいることでしょう。けれどもそれ、本当に伝わっていますか。”なんとなく”伝わっているだけではないですか。

この”なんとなく”を”ハッキリ”に変えてやるのが客観性です。

たとえば、ゾウを知らない人にどんな動物が伝えるとします。このときにどう伝えると本物に近いサイズ感を伝えられるでしょうか。

まず思いつくのがこのような表現です。

「とても大きい動物だよ」

この表現で、あのゾウのサイズ感が伝わるでしょうか。

否。「とても大きい」だけでは難しい。

なぜなら、人によってイメージする大きさが違うからです。「とても大きい」では馬ぐらいの大きさをイメージする人もいるでしょうし、大型犬くらいの大きさを想像してしまうかもしれません。

ですから、こういうときは比較してあげたほうがいい。

「馬よりも大きい動物だよ」

と書いたほうが伝わりやすいでしょう。比較対象があると人ってヤツは理解しやすくなる。ただ、これでもゾウが馬よりどれくらい大きいか想像できません。

比較よりも、数字で示してやったほうがサイズの解像度がぐっと上がります。

「体長はが6m程度ある動物だよ」

と書けば誰がみても大きさが伝わるでしょう。”何となく”が”ハッキリ”に変わりました。

この「いつ、誰がみてもそうだと認められる表現」、これこそが客観性です。

テクニック論にはなりますが、

比較で伝えること

数字で伝えること

というのは文章を客観的にするために有効なワザです。意識してみてください。

感想も人には伝わらない

感想も正しく人には伝わりません。客観的ではないからです。

たとえば、トマトが大嫌いという人に、

「このトマトおいしいから食べてみて」

と言って、実際に食べてくれる人はどれくらいいるでしょうか。

私がトマト嫌いだったら「やめとく」って言うと思います。

おいしいというのは、その人が感じた「感想」で、私も同じようにおいしい感じるとは限らないからです。マズいものは極力口にいれたくない。

ただ、みんながみんな食べてくれないと言っているわけではありません。もちろん共感して食べてくれる人はいるでしょう。

しかし、それは一部です。

私のような人がいる限り、どれだけ熱意を込めて「トマトのおいしさ」を伝えたとしても、全員にそのおいしさは伝わりません。

では、どうやって伝えるのか。

それは事実をもとに話すことです。

「トマト特有の臭みがなくなっていることがデータで示されている。だから今までのトマトとは違うんだ」

と。こう言えば多くの人は「ちゃんとデータが出ているのね。臭みがないのなら食べてみようかしら」となるわけです。

事実は普遍です。誰がみても事実は事実。だからこそ事実をもとにした客観的な意見というのは、みんなが納得します。

ただ、分野によっては、事実がわからないものもあるでしょう。すぐに思いつく分野は、文学や哲学などです。思想は目に見えません。あるのは過去に書かれた文字だけ。こういうものは、

「学者がこのトマトは臭みがないと言っていた。だから今までのトマトとは違うんだ」

というように自分以外の人の意見をだすことで、信用してもらいます。

この部分を説明するとなると長くなるので、詳しく知りたい方は、参考文献なしのレポートではダメな理由をどうぞ。

このようにレポートを書くときは、

事実をもとに考えを述べること

信用できる文献から引用して考えを述べること

これらを意識してみてください。

学問において自分の感想はあまり意味を持ちません。人それぞれ感じ方が異なるからです。

もちろん、先生に感想をかけと言われれば書いてください。ただそれは”感想文”であって、ここでいう”レポート”とは区別しておくほうが好ましいです。

論理性がなければ誰も信じてくれない

「論理性」というのは、筋道がたっていることです。

ことばでは意味を理解している方も多いでしょうが、なんとなく軽い気持ちで「自分の文章は論理的だ」と思い込んではいないでしょうか。

文章がつながっていればいい。突拍子もないことを言わなければいい。このような軽い気持ちで。

もしそうだとしたら要注意。

論理性というのは、思っているよりもシビアで、奥が深い。なんとなく文章がつながっているというだけで論理的とはいえません。しつこいようですが、”なんとなく”ではダメです。

では、どんな文章が論理的だと言えるのでしょうか。

「論理的」を理解するための例として、推理小説を思い浮かべてもらうと話が早い。推理小説でこのようなシーン、よく見かけると思います。犯人だと疑われて、

「俺は犯人じゃない!その時間、俺は外出してたんだ!」

と返答する人。この人は「俺は犯人ではない」という意見をのべて、そのあとに「犯人ではない理由」をつけくわえています。もし、ここで単にひとこと、

「俺は犯人じゃない!」

とだけ言ったらどうでしょうか。誰からも信じてもらえないのは言うまでもありません。人が納得するのは、「理由」や「経緯」がわかるときだけです。

「理由」や「経緯」がわかる文章、これが論理的な文章といえます。

ただ、例のようにひとつの理由だけでは、カンペキな論理だとはいえません。まだまだ浅い論理です。

「外出していた」というアリバイひとつだけだと、ほとんどの方は、

「証人がいないので、まだわからない」
「ウソを言っているのでは?」
「他にグルがいるのでは?」

などなど、さまざまな疑問が浮かんでいることでしょう。このようにひとつだけの理由では、まだ信じてもらえません。もっと「論理」を深める必要があります。

たとえば、

「俺は犯人ではない。なぜならその時間、俺は外出してたんだ。証人もいる。その証人は自分とはまったく交友のないあかの他人だ。あかの他人だという理由は~」

などと筋道をたてて説明する必要があります。

さらに、自分は犯人ではないと証明する方法があります。それは他の人が犯人だということです。

「俺ではなく、あいつが犯人だ!なぜなら~」

と説明できれば、もっと説得力が増します。違う視点から自分を援護するワザです。

このように論理的というのは、「俺は犯人ではない」というひとつの意見について、理由と経緯を深堀りしていくイメージです。

もっと分かりやすくイメージで伝えると、「広く浅く」ではなく「狭く深く」です。このイメージは、レポートにおいてすこぶる重要です。

「広く浅く」の例をあげてみます。

「俺は犯人ではない!俺ではなく、あいつが犯人だと思う!あいつが俺を犯人にしたてあげようとしているんだ!」

いっけん文章がつながっているように見えますが、意識してよんでみると、ただ意見の羅列をしているだけの文章です。

主張がおおいぶん、理由や経緯に文字数をさくことができなくて浅い。理由や経緯が分からないから、ひとつひとつの意見が信用できない。それぞれの文が論理的につながっていない。

”なんとなく”つながっているのです。

このような”なんとなく”つながっている文章を避けようとすると、おのずと理由や背景に文字数をつかうことになる。話題を絞って、ひとつの主張について深堀りをすることになる。

研究もレポートも推理小説と同じように、

「どうやってその結論にたどりついたのか」

そこが肝要です。

ひとつの意見に対して、背景や理由、経緯などを総動員して説明することで、やっとその文章は論理的だと言えるようになります。

分かりやすいイメージで言うと、名探偵が「犯人はあなたです!」と言ったあと、一人語りをながながとするでしょう。「犯人はこういう手口を使って、ああいうトリックをつかって・・・」と。あれと同じ要領です。

以上のようにレポートを書くときは、

論理的な文章とは理由や経緯がしっかりと説明されている文章のこと

視点をかえて、対立する意見の弱点をつくことも重要

「広く浅く」ではなく「狭く深く」考えること

これらを意識してみてください。

まとめ

本記事では、「レポートとは誰もが納得する文章である」ということを伝えました。

実は、これと同じようなことを高校数学で既にやっています。

思い返してみてください。

数学では答えを書く際に、答えだけでなくその答えにたどり着いた過程を書かされていたでしょう。

今思えば、その解答は数字をつかって客観的に説明されており、結論までの論理もつながっていたことが分かります。

知らず知らずのうちに、あなたも人を納得させるためのテクニックを使っていたのです。

このように、「客観性」「論理性」をつかって、だれが読んでも納得するように書くことは、往々にしてあります。

大学だけでなく社会人になっても使える考え方です。心に刻んでおいて損はありません。